2025/07/05 10:00
——農作物被害と、命をいただくという選択肢
朝、畑に向かう道すがら、耳をすますと——カサリ、と草を踏む音。
鹿だ。昨晩、柵の隙間を見つけて入り込んだのだろう。
大切に育てたトマトが、もぎたてのように食い散らかされていた。
「今日こそ収穫しよう」
そう決めて、昨日は見送ったのに。
農家さんがこの瞬間に感じるのは、悔しさというより、虚しさだろう。
令和5年度の農作物被害額は、シカが70億円、イノシシが36億円。
この2種だけで、被害全体の6割以上を占めるという(出典:農林水産省 令和6年6月5日資料)。
しかも、被害は単なる経済的な損失にとどまらない。
作付放棄、離農、そして地域文化の継承にも影を落としている。

——とはいえ、命は憎んでいいものなのか?
正直、鹿や猪を「にくたらしい」と思ってしまう気持ち、わかる。
でも、「だから殺す」は、ちょっと短絡的すぎる気がする。
彼らに悪意はない。ただ、食べたいだけだ。
捕獲数は増えている。令和5年度、鹿は約72万頭、猪は約52万頭が捕獲された。
それでも鹿の生息数は減っていない。
捕っても、減らない。いや、捕っているのに増えている。
その理由は、繁殖力と生息域の拡大、そして狩猟者の高齢化だ。
実際、ニホンジカの生息推定数は平成23年度の約233万頭から、令和4年度末には約246万頭へとむしろ増加している(出典:環境省 自然環境局資料)。
これはもう「敵を倒すゲーム」ではなく、
“暮らしの設計”の話なのだと思う。
人と野生が、同じ山の空気を吸いながら、どう共存していくか——。
美味しく、いただく。というやさしさ。
近年、野生動物の命を「ジビエ」として活かす動きが広がっている。
ただの駆除ではなく、食卓に迎え入れる。
それは、“命を無駄にしない”という祈りにも似た行為だ。
たとえば、ある猟師さんがこんなことを言っていた。
「どうせなら、ちゃんと命をいただきたい。畑を守るために獲った命、無駄にしたくない」
その言葉には、どこか静かな決意があった。
無添加の鹿肉ソーセージ、
ハーブ香る猪のパテ、
冷燻のジビエベーコン——。
“野生の味”には、少しのワイルドさと、
驚くほどの繊細さがある。
それは、山で生き抜いた命の記憶そのものなのかもしれない。
食べることで、つながる命もある
この問題に「正解」はないと思う。
でも、ひとつ言えるのは、
私たちがどう食べるかが、どう生きるかにつながっているということ。
鹿や猪を、ただ「にくい存在」として駆除するのではなく、
「ありがたい命」として迎え入れる。
それは、被害と共存、捕獲と利活用のあいだで揺れる、
この時代なりの「やさしさ」なのかもしれない。
スーパーの棚に並ぶジビエに、少し立ち止まってみてほしい。
そこには、誰かの畑を守った命と、
それを無駄にしないという人の手がある。
——そう思えば、そのひとくちが、少し違って感じられるはずだ。
出典一覧:
農林水産省「令和5年度における野生鳥獣による農作物被害の状況等について(令和6年6月5日)」
https://www.maff.go.jp/j/seisan/tyozyu/higai/240605.html
環境省「生息状況推定データ」
https://www.env.go.jp/nature/choju/docs/docs5.html