2026/01/03 09:25
「天然」って言葉、だいたい正義みたいな顔をしている。
天然水、天然塩、天然の鮎。
ところが不思議なことに、「天然の猪です」「天然の鹿です」と言うと、急に空気がザワつく。
天然って、さっきまで褒め言葉だったよね? どうしてここでだけ、急に“野生”が怖がられるんだろう。
僕はときどき思う。
ジビエが誤解される原因って、「個体差」という便利な言葉に、ぜんぶ押し込まれてないか、と。
——いや、もちろん個体差はある。
季節、環境、年齢、性別、食べてきたもの。
山の匂いも、風の温度も、筋肉のつき方も、ぜんぶ違う。
それはもう「同じものを求める方が野暮」という、天然の世界の掟みたいなものだ。
でもね。
ジビエの“ブレ”を決めているのは、個体差だけじゃない。
むしろ——職人差のほうがでかい。僕はこっちを声を大にして言いたい。
「ジビエとは?」——野生肉の“答え”は現場にある
ところで、ジビエとは何なのか。
ざっくり言えば、野生鳥獣のお肉。鹿肉や猪肉が代表格だ。
そして世間ではよく「野生肉は個体差が大きい」と言われる。
うん、わかる。
ただ、その“個体差”という言葉が便利すぎて、何でもそこに放り込まれてしまう。
本当は、ジビエの味を左右する分岐点がもうひとつある。
それが、処理施設や工房で働く人たちの手さばき。
血の抜き方、温度の扱い方、時間の読み方、脂や筋との付き合い方。
その一瞬一瞬が、野生肉の味を決める。
同じ山、同じ日に獲れた猪でも、
誰が、どう扱ったかで「別の動物」みたいになる。
いや、別の動物じゃなくて、別の“食べもの”になる。
畜肉がくれる安心と、ジビエがくれる冒険
畜肉って、改めてすごい。
一年中、肉質の似たお肉が、ちゃんと美味しい。
昨日食べた味を、明日も食べられる。
料理も安定する。食卓も安定する。人生まで安定しそうだ(それは言い過ぎ)。
安定は、やさしさだ。
疲れた日に「いつもの味」があるって、救いなんだよね。
でも、ジビエは違う。
昨日の猪は、今日の猪じゃない。
昨日の鹿は、今日の鹿じゃない。
同じメニュー名でも、同じ感想にならない日がある。
それって、困る人もいる。
でも僕はそこに魅力があると思っている。
天然の魚がそうであるように。
同じ“鯛”でも、海が違えば、季節が違えば、顔つきまで変わる。
日本人は、あれが好きだ。むしろ、あれに弱い。
なのに、ジビエだけは「天然」と言われても身構える。
変なの。
僕ら、天然が好きな民族のはずなのに。
“臭い”の犯人捜しをやめよう。犯人はだいたい「仕事の差」だ
ジビエの話になると、だいたい最後にここへ着地する。
「臭いんでしょ?」
この一言で、会話が冬山みたいに冷える。
ただ、臭いの正体って、“野生だから”だけじゃない。
むしろ扱いの差で出てしまうものがある。
職人が温度と時間と衛生を読み違えれば、素材は簡単に拗ねる。
逆に、腕のいい人が扱うと、驚くほど澄んだ香りになる。
澄んだ香り、って言うと大げさだけど、本当にそう感じる時がある。
雑味が抜けて、甘みが立って、噛むほどに「山の静けさ」みたいなものが広がる。
野生肉の味って、“野生っぽさ”じゃなくて、きれいさが本体だったりする。
ここで僕は、ひとつだけ断言しておく。
ジビエの品質は、運だけじゃない。
職人の技術は、再現性を生む。
そして再現性が生まれると、ジビエは「怖い食材」から「頼れるごちそう」に変わる。
唯一無二は、怖さじゃなくて“贅沢”だ
ジビエは、唯一無二のお肉だ。
魚よりも、もしかしたらもっと。
だって同じ山でも、同じ日に獲れたとしても、
その後の手仕事で、味は別の人生を歩み始めるから。
「昨日食べた味を、今日も食べたい」——それは畜肉の幸福。
「今日しか出会えない味を、ちゃんと味わう」——それはジビエ料理の贅沢。
もしジビエが少し怖いなら、まずは“野生”じゃなくて“職人”を信じてみるといい。
手がいい人のつくる肉は、ちゃんとやさしい。
そしてそのやさしさは、派手に主張しない。静かに、噛むほど出てくる。
……そう考えると、ジビエって結局、恋愛と似ている。
相手(個体差)のせいにしがちだけど、だいたいはこちらの“扱い”が問われている。
