2026/01/20 00:00
——処理施設に行く前に、もう始まっていたこと
「初めて加工処理施設に行った日のこと、覚えてる?」
そう聞かれて、わたしは少し考え込んだ。
正確な日付も、場所も、正直あやふやだ。
たぶん数年前。
シェフの人たちと一緒に、どこかの施設を訪ねたのが最初だった気がする。
でも——
「初めてかどうか」は、あまり大事じゃなかったように思う。
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当時のわたしにとって、ジビエは、
さらに言えば、狩猟や解体は——
あまりにも遠すぎる世界だった。
そもそも、「動物を解体する」という世界が、
人生の中に存在していなかった。
興味を持ったこともない。
想像したこともない。
怖いとか、苦手とか、そういう感情すらなかった。
遠すぎて、
感情が立ち上がる前の場所。
たぶん、そんな距離感だったのだと思う。
最初に見たのは、たしか猪だった。
「猪だ」「解体だ」という事実よりも、
「ここは、自分の知っている世界じゃない」
その感覚のほうが、ずっと強く残っている。
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でも、初めて処理施設に行った日に
わたしが強く感じたのは、解体そのものではなかった。
ジビエは、施設に運ばれた瞬間から始まるわけじゃない。
そう気づいたことだった。
もっと前。
山の中で、野生の動物と人が向き合う、
その一瞬から、すでに始まっている。
その入口にあるのが、「止め刺し」だ。
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「止め刺し」とは
止め刺しとは、捕獲した動物にとどめを刺すこと。
言葉にすると、それだけのことなのに、
実際に見ていると、そう単純ではないとわかる。
止め刺しには、いろんなやり方がある。
最終的なゴールは同じ。
きちんと命を終わらせること。
でも、そこに至るまでの道筋は、本当に人それぞれだ。
背後から忍び寄り、一瞬で決める人。
水や電気を使って、動きを止めてから行う人。
技術の差もある。
経験の差もある。
でも、それ以上に——
その人が、鹿やイノシシという命を
どう捉えているかが、
止め刺しには、静かに滲み出る。
話しているだけでは、わからない。
理念や言葉だけでは、見えてこない。
でも、止め刺しを見ていると、
その人の思いが、ふっと表に出る瞬間がある。
わたしは、そう感じている。
だから、処理施設の仕事を語るとき、
「施設に運ばれてから」の話だけでは、
どうしても足りないと思ってしまう。
⸻
「止め刺し」に、ひとつの正解はなかった
最初は、正直に言うと、
「銃での捕獲がいちばんいい」と思っていた。
動物に余計なストレスを与えない。
罠にかかった脚が鬱血して、使えなくなることもない。
もらった命を、無駄なく使える。
そう信じていた。
でも、現場を知るほどに、
その考えは、少しずつほどけていった。
罠でも、銃と同じくらい
ストレスなく止め刺しをする猟師さんがいる。
もらった命を大切に使えるよう、
工夫された罠もある。
「罠だからダメ」
「銃だから正解」
そんな単純な話じゃなかった。
結局のところ、
方法に、確実な正解があるわけじゃないのだと思う。
その人の腕。
その人の考え方。
その人と、命との距離感。
それらが重なって、
いくつもの「猟のかたち」が生まれている。
正解がひとつあるのではなく、
いろんな猟が、並んで存在している。
それを知ったとき、
ジビエという世界が、
ぐっと立体的になって、
わたしは、前より少し好きになった。
⸻
あの日、わたしは入口のさらに手前に立っていた
初めて処理施設を見た日。
わたしは「解体」という仕事を見に行ったつもりだった。
でも、今振り返ると、
実際に見ていたのは、
解体の前にある、人と命の関係だったのかもしれない。
施設は、入口じゃない。
止め刺しは、ただの工程じゃない。
ジビエは、
誰かが山で決断した、その一瞬から、
すでに始まっている。
そう思えるようになったこと自体が、
わたしにとっての、
「初めて処理施設に行った日の、
いちばん大きな収穫」だった気がしている。
